丹波篠山城残石(来栖野地区)

「来栖野の残石」説明板より

 この石垣は、篠山城の石垣構築の残石を利用して造られており、一部の角石を除き、全て来栖野地範より採石したものです。
 来栖野集落は築城(慶長14年・1609年)時の採石地で矢印で指している山上(標高500m強)がその場所です。地質系統調査によれば岩体質は、火山性の流紋岩で、丹波層群(古代ペルム紀・石炭紀)に属し中生代白亜紀の篠山層群より古く、ここより南西方面当野・波賀野・波賀野新田古市・油井・古森・草野へ延びておりこれら一帯から篠山城石垣構築石材が供されました。
 搬石ルート及び方法はほぼこの公園前の国道372号線(通称デカンショ街道)を北上”コロ”又は”特殊な搬石車”によったものと想定されますが、一説には向い谷の国道176号線(通称丹波の森街道)に添って南北に貫通している武庫川→田松川→篠山川の水路により運搬されたともいわれているが、何れも物的証拠もなく推論で定かではありません。
 さて、この石垣には15個の石に次の8種類の符号が刻印されております。
   ※印は省略します。
 広場の2個の石のうち1個の石に2ヶ所の同符号があります。従って当公園内には、合計17ヶの符号がありこの符号の推定所属藩侯の絵解きを試みておりますが解明しておりません。
 ちなみに篠山城は西国15ヶ国・大名数20侯に扶役が命ぜられ、8万人が工事に参画した壮大な規模の徳川天下普請で、1年足らずで完成されたと伝えられています。5万坪の面積に、総数約6万個の石が使われ、約250種類約2000個の符号石を確認、大坂城・名古屋城は別格として、日本一と言われています。篠山城見学の際、旧本丸の石垣を探索していただけでは、ここと同じ符号を数多く見ることができます。
来栖野地範には符号付残石がこの石垣を含め23種類56個現在、貯水池の堤防や平地化の石垣・灰小屋・庭石・神社の灯籠・各種構築物の礎石等多岐な用途に使われています。
 一文字一星二、蛇の目、一文字一星等の○印のついた符号が56個のうち半数以上占めており、大大名の毛利の家紋が一文字三ツ星であるところから推定の域は出ないが栗栖野は毛利の関与が大きかったのではないかと、郷土史家は推量しています。如何なる理由で符号が刻まれたか諸説があるが、何れにせよ小さく浅く刻まれているものの400年近くの歳月を経ても読みとることができます。何を吾々に伝えようとしているのかいささか感動を覚えます。縁あって栗栖野の残石の一部が篠山町西野々・原山口の国道三七二号交差点横の公園に使われています。


        

【管理人の鑑識モード】

 確かに毛利家の丁場であった加工性が高いです。が、この場所に集められている石材は全てが毛利家に関係するモノじゃないです。例えば鉞(斧)は毛利家より池田家の代表的な刻印ですし、□印も毛利家と断定するには普遍的に使用されているし、強いて言えばこの場所に集められている刻印付きの石材は池田家に関係するモノが多いんじゃないかな?

来栖野城公園と名づけられている、残石を集めた公園。櫓台状の角石は新しい石材を使用しているが、大半が残石を使用している模様。
「卍」印の刻印
「○に井」印の刻印
一つの石材に□印が二ヶ所に施されている。
矢穴、上場長が約12cmのもの
矢穴、上場長が約10cmのもの
矢穴、上場長が約16cmのもの