詫間海軍航空隊跡

  所在地:香川県三豊郡詫間町香田
【歴史】

『詫間海軍航空隊跡』説明板より

 詫間海軍航空隊の建設は昭和16年11月に発表された。香田・和田内地域の突然の土地買収は住民にとって死活問題であった。また新浜に呉海軍軍需部詫間補給が建設され、三地区で合計136戸(買収面積約37町歩)が立ち退くことになっった。移転にともなう苦労は筆舌に尽くし難いものであった。建設工事は呉海軍施設部が担当し、地元の勤労奉仕隊員を加えて官民一体で行われた。詫間空は昭和18年6月1日に開隊され、水上機の実用機教育を担当した。主要配備は九四式水上偵察機、二式飛行艇とうであり、各地から2000余名の兵員が着任し、連日猛訓練が展開された。昭和19年9月、横浜海軍航空隊は沖縄攻防戦に備えて主力を詫間に移すことになった。この時点で、ここ詫間は大型飛行艇隊を擁する水上機の一大作戦基地になった。昭和20年4月25日、第五航空艦隊は決戦態勢を整えるために、全飛行艇部隊を統合して実戦部隊詫間海軍航空を編成した。詫間空配備の二式飛行艇は高速性能のうえ大型レーダーを装備しており、米軍戦闘機と死闘を繰り返しながら、終戦の日まで第五航空艦隊の目となって活躍した。銀河爆撃機で米軍機動部隊をウルシー泊地に強襲した第二次及び第三次丹作戦では、長駆進撃路の天候偵察や特攻機隊の誘導で活躍した。これら作戦で二式飛行艇27機と250名の精鋭を失った。昭和20年2月16日、全小型機による特攻訓練の実施が発令された。詫間空は、水上偵察機による神風特別攻撃隊琴平水心隊を編成した。同時期、茨城北浦・鹿島両海軍航空隊で編成された神風特別攻撃隊魁隊が詫間に進出、両隊は猛訓練の後、鹿児島県指宿を前進基地として沖縄周辺の艦船に体当たり攻撃を敢行した。指宿では先行した整備員が発動機調整・燃料補給・爆弾装着等の整備に心血を注いだ上、断腸の思いで出撃を見送ったという。4月28日以降四次にわたる出撃で25機が米軍艦船に突入し57名の若者が沖縄の空に散華した。これら詫間空の戦闘を強力に支援したのは、第11海軍航空廠詫間工場である。昭和19年10月から詫間補給所の施設を利用して修理工場を建設し、基幹技術者に徴用工員・増川女子挺身隊員・女子年少工・観音寺商業と善通寺高女の動員学徒等を加えた約800名の陣容で、各種飛行機の修理に精根を尽くした。被弾破損した飛行機を一刻も早く飛ばそうと、必死の思いで業務に邁進した若い力が、二式飛行艇を決戦の空へ飛ばし続けたのである。戦後50有余年、詫間海軍航空隊跡は国立電波高専と民間工場等に、11空廠跡地は詫間中学校に転用され、わずかに水際4箇所のスベリと横穴式防空壕を残すのみとなっている。我が国今日の繁栄は祖国の防衛に殉じた将兵や多くの人々の犠牲に負うことを銘記し、再び戦争の惨禍が起こることのないよう、恒久の平和を祈念して、詫間海軍航空隊跡を詫間町の史跡に指定する。

【写真と雑記】

詫間海軍航空廠の平面図

詫間海軍航空廠の現状 その1

左が国立電波高専、右が民間工場

詫間海軍航空廠の現状 その2

説明板に記載のあった「スベリ」の一つ。上記の平面図では一番右側の幅の広い部分と思われる。なお、『県別マップル香川県』にはスベリ跡がはっきりと記されている。

防空壕跡入り口

三四郎岩を訪れる際に、このトンネルに興味を持たなければ詫間空の跡に気がつかなかったでしょう。道路沿いに4・5箇所トンネルが残っています。
「二式飛行艇」ってこんなん↑
実物は東京の船の博物館前に展示してます。