備前焼(南大窯跡)

「備前焼の歴史と南大窯」説明板より

 備前焼の歴史は平安時代の終わりごろ伊部の地に須恵器工人が移住して窯を築いたことに始まる。
 鎌倉時代になり、日常の容器として実用性のある強靱な陶器が求められるようになると備前焼は壺・甕・擂鉢を大量生産するようになる。壺・甕の口縁も玉縁となるなど備前焼の特徴を示すようになる。その流通圏は飛躍的に広がり、室町時代後半には畿内を中心にしてほぼ全国に運ばれている。このころは共同窯である大窯で生産されるようになるが、
 桃山時代になると南・北・西の三大窯に集約されることになる。その製品の多くは壺・甕・擂鉢などの日常雑器類で現在残る物原からみてもその生産量の多さがうかがわれる。
 やがて備前焼は素朴な焼味が茶人に注目されるようになり、茶会で用いられ多くの名品が生まれた。中でも桃山時代の製品は美術的に高く評価されている。
 江戸時代になると、この南大窯は北・西大窯とともに岡山藩の管理下で生産されるようになり、天保年間(1830〜1843)には小形の融通窯(天保窯)が築かれ、やがて大窯の時代は終わった。

「伊部南大窯跡」説明板より

 備前焼は、平安時代の終わりごろから現在まで約千年の歴史をもつ。その最盛期に当たる桃山時代から江戸時代の様相を物語るのがこの南大窯跡である。
 南大窯跡は、北大窯あと、西大窯跡と並んで共同窯として使用されていたもので、東窯跡・中央窯跡・西窯跡の三基の窯とそれらに伴う巨大な物原(破損品や窯道具を捨てた場所)から成っている。最大の東窯跡は全長約54m、幅約5mに達し、国内でも最大規模の窯跡のひとつである。中央窯跡は全長約30m、幅約2.3m、西窯跡は全長約31m、幅約2.8mとやや小形である。三基とも床面を少し掘下げた上に天井を架けてトンネル状にした構造で、天井を支えるために土柱が設けられていた。この窯では、一回の焼成に薪一万五千〜六千貫(約56〜60t)を焚き、製品三万四〜五千個を34〜5日かけて焼いていた。
 この窯跡で焼かれた製品は壺・甕・擂鉢・徳利などの日常雑器類が主で、四石(約7120リットル)入りの大甕のような大形品も見られる。それらの他に茶器・花器も焼くかれていて、特に桃山時代の製品は美術的に高く評価されている。

南大窯跡の地図

南大窯跡の石碑

碑の裏が大窯跡
南大窯(東窯)跡

幅の広い援斜面に掘られた竪堀に一瞬見えました(笑)。
【雑記】

 「マムシ注意」の看板が異様に多くあった気がします。訪れる際は冬場がええんじゃないでしょうか。駐車場がありますので、車利用の方が便利でしょう。(JR利用やと徒歩20分はかかるかな?)
 また、足下いたる所に焼き物の破片が落ちているので、破片を見て「これは何や?」と考えるの面白いかな?