【歴史】
『津村城跡』説明板より
津村城は八幡神社のすぐそ場の字城跡にあったいわれている。神社の参道の東側にある堀を四辺として周りに内堀を巡らした矩形の区域が城跡である。内堀の南から東西にかけ字二の丸がある。外側には神社のすぐ横を東西にはしる堀を北辺とし内堀に平行した外堀がある。
天正の頃(1573〜92)、津村大助秀門がこの地にい二十四町を領していたという。秀門は俵藤太秀郷の正統である栗木民部大輔秀政の子孫で右京大輔秀保のとき九州に下向して大友の幕下となり、津村に城を築いて津村を氏とした。大輔秀門の父は数馬助秀国その父秀保の子大輔秀助である。
天正2年(1574)10月肥前の龍造寺隆信と戦い津村方は力尽きて討ち死にも城は滅びた。秀門の子、秀千代は城をのがれ浮羽郡に隠れ、のち内記と改めた。内記の子を宗仙といい宗仙の子、三郎左衛門は再び津村に来て庄屋となった。
寛永10年(1633)三郎左衛門は大野島の開拓に従事し、数十町歩の土地を得たとつたえられている。城跡といっても、その面影はほとんど残っていないが、この一帯から宝筐院塔、城の礎石や鬼瓦の一部と思われるもの等が出土する。
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