【歴史】
『松崎城跡』説明板より
由緒 有馬家第二代藩主忠頼には子がなかったので、出石藩主(兵庫県)小出吉重に嫁いだ妹の子豊範を後嗣として幕府に届け出た。然るに其後忠頼には頼利、頼元等の男子が生れたので、寛文8年(1668)に頼忠が死んだ時、頼利が跡を継ぎ、豊範が姉婿奥州窪田藩主(秋田市)土方雄隆のお家騒動に巻き込まれて、幕府の怒りに触れ、松崎領1万石は取り上げられ、豊範は久留米藩に押しこめられ、元禄13年(1700)53才で篠山城内(篠山小学校)で死んだ。墓は梅林寺にある。其後松崎は天領となり、貞享2年江戸より代官服部六左衛門が来て、城は破壊され、跡には松が植えられた。実に松崎城は僅か14年間の短い命であった。因に豊範は城の鎮護として京都伏見より倉稲魂神社を勧請し、また桜馬場に土堤を築いて山桜を植え、さらに松崎宿を創築した。
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