【歴史】
『三原城跡』説明板より
三原城は本郷城ともよばれています。東西約110m、南北約150mの範囲に外堀・内堀を構え、角矢倉、物見櫓等を設けた平城でありました。
三原氏の始祖は三原弾正時勝と伝えられ、「おしどり物語」の哀話が残っています。
鎌倉時代の初期、糸島郡高祖の城主原田種直の子種朝は三原氏を継ぎ、第13代の当主になりましたが、入城にあたり箱崎の高良新宮を勧請して、城の守護神としました。後年戦火の及ぶことをおそれて、城外に移したのが現在の本郷高良玉垂宮です。
鎌倉時代には、護良親王の命を受けて九州探題を攻め、あるいは多々良浜に足利尊氏の軍勢を迎え撃つなど、宮方に力を尽くしていましたが、後年には武家方となり、大原合戦の時は少弐方に名を連ねています。
天正14年(1586)三原紹心が四王寺岩屋城で討死にしたこともあって、城としての役目は終わることになりました
城はここから南に約100mの地点にあります。
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