筑後犬塚城

  所在地:三潴郡三潴町玉満字原口
【歴史】

『犬塚城跡』説明板より(一部省略)

 応仁の乱(1467〜77)の頃、時の九州探題職で肥前綾部(現・佐賀県中原町)城主、渋川教直が筑後の土豪の行動を探るために築城。長男政実を城主としたが、文明7年(1475)政実は27歳で死去した。
 その後、綾部城内での渋川家の内紛は筑前肥前守護職の小弐政資につけ込まれ、教直は三男で綾部城主の刀祢王丸は、延徳元年(1489)政資に落城させられた犬塚城に落ち延びた。延徳3年、政資と豊後筑後守護職の大友政親の軍が出兵し、筑後の土豪衆は、我先にと駆け寄り犬塚城を攻めたので、刀祢王丸は防戦出来ずに落城し、肥前勝尾城(現・鳥栖市)へ遁れた。
 落城後、政親に犬塚城番を命じられた蒲池繁久は、弟の家久を城主として任務に当たらせた。家久は犬塚氏と改姓、その長男家貞は明応年間(1497頃)肥前神埼郡嶋村(現・佐賀県千代田町)へ移住築城し、周防長門守護職の大内義興に討たれた政資の遺児資元の挙兵荷担を契機に一族は繁栄した。
 犬塚家久は、永正元年(1504)大薮(現・大木町)へ移り円照寺を開いた。その後、大善寺玉垂宮の大祝である隈鎮保が犬塚城主となり三十五町四反を領有した。天正15年(1587)太閤秀吉の九州平定で没収され廃城となり、江戸初期に村民達が古城を開き田畑とし、寛永15年(1638)天満宮を遷した。

(写真1) (写真2)
【雑記】

 犬塚城内には天満宮が鎮座しているが、その周囲には櫓台と土塁が残っています。櫓台(写真1)は「ホントにそうなの?」といった感じですが、土塁の方は案内碑付きの立派なものですが、確か土塁の上に用水用のコンクリの溝がありましたので、後世に改変は受けている土塁でしょう。また、土塁の外側は陣堀といい、かつて堀であった名残でしょう。