九戸城

  所在地:二戸市福岡城の内
【歴史】

九戸城内説明板より

 九戸城の歴史
 九戸城を九戸氏が居城としたことが文献に最初に現れるのは九戸政実より4代前の九戸光政の頃(明応年間=15世紀)です。
 天正19(1591)年、城主九戸政実は南部26代当主の座に弟を擁し、田子信直と奥州南部を二分して争いました。信直が天下人秀吉の領地安堵をとりつけたことから、天下の謀反人として秀吉の奥州仕置軍6万余を敵に回しこの城にたてこもり戦う事となりましたが、仕置軍の策謀により落城しました。
 その後、秀吉の命で仕置軍の軍鑑であった蒲生氏郷がこの城を普請し南部信直に渡し、信直は三戸城より移り福岡城と命名、盛岡城の築城が成るまで南部氏の本城として機能しました。
 九戸城の特色
 城の形式としては規模雄大な平山城であり、占地や縄張りには中世南部地方の城の特色が濃く見られますが、石垣を築き、虎口は桝形の形態を取るなど近世的な特色も強く、中世から近世への過渡期の城であると言えます。特に石垣は東日本でも最古級であり、古式穴太積みの石垣としては最北のものです。城郭史のうえでは三戸城と盛岡城の間の時期に位置する南部氏本城であるとも言えます。
 九戸城の規模
 昭和10年に国の史跡指定を受けているのは字城ノ内及び字松ノ丸の合わせて約21万uであり、この中には本丸、二ノ丸、松ノ丸、若狭館、外館(石沢館)が含まれていますが、本来の城域は西の馬淵川、北の白鳥川、東の猫淵川を天然の外堀として、南は松ノ丸の人造の空堀までの34万u(市営球場のおよそ25倍相当)にも及ぶ広大なものでした。指定当時、三ノ丸(字城ノ外、字五日町)は既に市街地であったため指定区域から除かれています。

(写真1) (写真2) (写真3)
(写真4) (写真5) (写真6)
(写真7) (写真8) (写真9)
【雑記】

 本丸の周囲の空堀(写真1)を越えると本丸にはいるが、芝生を張った広場(写真2)になっています。周囲は高さ1mほどの石塁(写真3)が廻っていますが、破城を受け残りは悪いです。 本丸は追手門(写真4)と本丸虎口(写真5)が空いていて二の丸と繋がっています。本丸虎口の石垣(写真6)も角石は外され破城の様子がよく判ります。 二の丸の追手門と反対側には二の丸搦め手門(写真7)があり、空堀(写真8)の向こうに外館(石沢館)(写真10)が見えます。
 基本的に石垣は破城時のものが残っているようで、石垣の積み方・加工等大変参考になる城跡だと思いますが、真夏(訪城時は8月でした)よりかは雑草の無い時期が訪れるのが良いでしょう。