【歴史】
「目垣城」説明板より
目垣の地は、古代から中世にかけて広くこの地を統裁していた溝咋氏の所領溝咋荘の内にあり、溝咋荘の代表的な土地であったことから、この名がつけられたといわれいます。
城跡に関する資料としては
「大阪府全志」(巻3)
溝咋村大字目垣 本地は古来嶋下郡に属し、もと溝咋荘の内にして目垣村と称す。「摂津志」には本地に塁堡の址ありと記すれども今其の址は詳ならず。
「日本城郭大系」(第12巻)
目垣城 茨木市目垣「摂津志」には山田十三城の一つとして目垣の名をあげるが、位置・興廃年月とも不詳。
以上のように、この辺りに土豪溝咋氏の城館があったことが伺えますが、その興亡や跡地を断定することは困難です。
しかし溝咋氏は古代からこの地方に勢力のあった豪族で、目垣を中心として、館を造り塁堡も築いたことは当然考えられます。
その場所は、おそらく安威川左岸育英橋を下った辺りであると考えられています。
|