【歴史】
「太田城跡」説明板より
太田1・2丁目の旧住宅内を歩くと、道路は狭くてT字路になっているところが多くありますが、城下町であった特徴をしめしています。この城は、平安時代末期(12世紀末)の平城で太田太郎頼基というひとが築いた城であるといわれていますが、くわしいことはわかっていません。
頼基は、多田源氏の一族で、摂津でも優秀な武士として名をつらねています。その行跡のうち「平家物語巻十二」に源義経と近くの河原条(安威川と西国街道が交叉する太田橋のすぐ西側)で合戦したことが記されています。
それによると、平家を滅ぼした義経が都にとどまっていたとき、兄頼朝が義経を討つため都に攻め入るという噂がたったので、義経が文治1年(1185)11月3日の明け方、西国に逃げのびようとしました。頼基は、「我が門の前を通しながら、矢ひとつ射かけてあるべきか」といって、河原津(河原条)ということろで義経と戦いましたが、この時敗れたとされています。
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