【歴史】
「安威城」説明板より
この城は土豪安威氏によって築かれた城(居館跡)で、北の花園山頂にある砦と一対のものと考えられます。
安威氏の記録は、「六波羅密寺文書」貞治2年(1363)の中に記されているのが最初で、このことから鎌倉後期頃には、この地域の在地領主として在村していたと考えられます。城(居館跡)の築かれた時期もこの頃と考えられます。
城の規模は「大阪府全志」によると、東西百間・南北百五十間とされ、また「東摂城址図誌」には、小字城垣内とされる南北五十五間半.東西二十二間余の地域に御殿台と呼ばれる土壇の存在を伝えています。
現在、安威小学校敷地の東側道路と村の中央を南北に走る道路との間が内郭で、中央道路に沿って流れる溝は城の堀であったと伝えられています。
外郭は、現在もその多くが竹林となって旧地形を保っています
さらに東南の一角には城の井戸と伝えられるのものが残っており、今も用水として利用されています。この井戸は元は石積みの井戸であったといわれています。
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