茨木郡山城

  所在地:茨木市郡山1丁目
【歴史】

「郡山城」説明板より

 「郡氏由緒書」によれば高利平太夫(郡平太夫)は、摂津国高槻城主和田伊賀守につかえ、この国立浪速少年院辺りにあった郡山城にいて、近郷七か村を支配していたといわれています。
「陰徳太平記」によれば
元亀2年(1571)8月、茨木・伊丹両氏と池田氏との対立が茨木方の和田惟政と主君池田勝正を追出した荒木村重・中川瀬兵衛ら池田二十一人衆との対立となり、白井河原をはさんで合戦をした。
 このとき和田惟政軍500余騎、池田勢2500余騎と多勢に無勢であり、和田軍の部下の高利平太夫(郡平太夫)が一人で池田陣に行き「主君は将軍からの急な呼び出しがあって京都に赴いているので、その帰りを待ってから戦闘を始めたい」と申し入れ時間をかせぎをしたが、計略がみやぶられて戦闘は始められました。帰陣した平太夫は主君惟政に「この軍勢では勝ち目がないので一旦退却してはどうでしょう。時に応じて軍を進めたり、退いたりするのが名将ですよ」と、進言したが聞き入られず、やむなく名馬「金屋黒」にまたがって、縦横無尽に戦ったが奮戦むなしく戦死したという。
 ここに置かれている石は、城の石垣に使用されたと思われる石で、三ツ鱗、三ツ星
が刻まれています。
 また、ここから約300メートル西に行った、大阪府営茨木郡山住宅B9棟の辺りに、
「城の内」「門口」など、城の位置を示す地名が残っています。

【雑記】

 以前、茨木の城跡巡りをした際に初訪城、今回は残石部門での訪城でした。前回必死で探した刻印は今回は楽々発見。(但し三ツ鱗のみ)
 刻印の状態は悪いですね。早々に拓本をとりに行った方がええね、近いうちに消滅の危険があるわ。