【歴史】
『若江城跡』説明板より
若江城は、南北朝時代の争乱期(14世紀末)に幕府の命令により河内国内の武士の統率と取締りのため、河内守護に任じられた畠山基国が、北朝方の拠点として築いた城郭と考えられ、永徳2年(1382)から天正元年(1573)までの約二世紀間、河内国守護の政庁の役割を果たしました。
畠山氏は、満家・持国に継がれ、このあと政長と義就の義兄弟の家督争いは、有名な応仁の乱へと発展し、やがて支配は細川氏から三好氏へ移り、永禄11年(1568)には畿内を平定した織田信長が三好義継を若江城主に畠山高政を高屋城主としました。
城は、石山本願寺攻撃の拠点として使われましたが、和議が成立し、城の役割を終えて廃城となり、歴史から姿を消すことになりました。
若江城の跡は、昭和47年以降の発掘調査で、次第に明らかになってきており、若江公民分館を中心として、周囲から二重の堀や土塁・各種建物・溝・井戸などの跡や瓦類・土器類・武器類など、多数の城跡の存在を裏付ける資料が出土しています。
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