【歴史】
「陶器城跡」説明板より
陶器城は、鎌倉時代の終わり頃北条氏の家臣陶器左衛門尉の居城でしたが、元弘3年(正慶2年・1333)1月15日に楠正成一族に攻め滅ぼされました。また、正平6年(観応2年・1351)7月には南朝方の和田助氏と助重が北朝方の拠る陶器城を攻めています。
明治時代に描かれたと思われる右の図によれば、城域は南北約190m、東西約160mで、堀と土塁に囲まれた本丸跡(約26m四方)を中心にして北西と南東にそれぞれ長方形の曲輪が突き出ています。城の周囲は堀(北西の曲輪幅約6m・南東の曲輪幅約8m)と土塁(北西の曲輪幅約1.5〜2.2m・南東の曲輪幅約12m)によって囲まれています。南東の曲輪には幅4〜6mの武者走が土塁に設けられていたり、南部には虎口が設けられていたことがわかります。
北西の曲輪は東西約37m、南北約120mの規模ですが、この絵図が描かれた当時でも田畑の開発によりその周囲を巡る土塁・堀の一部が削られたり埋められたりしていたことがわかります。
室町時代以降の陶器城の歴史についてはよくわかっていませんが、絵図に見られる武者走・土塁の規模などから恐らく戦国期に改修を受け、絵図のような形態になったのではないかと思われます。
現在でも城跡の遺構がよく残っており、中世城郭を研究するうえでたいへん貴重です。また陶器城跡に近接して、同時代の小角田遺跡があり、城跡との関連性が注目されます。
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