【歴史】
『家原城跡』説明板より
16世紀中頃は三好長慶が「畿内八ヶ国」を制圧し和泉国もその支配下にありました。永禄年間(1558〜1569)以降三好長慶の家臣松永久秀が力を得て、三好義継を擁する三好三人衆と対立するようになります。
家原城は松永方の和泉国の侍たち(和泉衆)がたてこもっていました。永禄9年(1566)2月松永方は城を出て上之芝(現上野芝)で戦い三好三人衆の軍勢に敗れ、岸和田城へ逃れました。
永禄11年(1568)12月には松永方の寺町左近将監・雀部治兵衛らがたてこもる家原城が、三好政康の兵約5000騎に攻められ落城します。家原城から逃れた人々は、踞尾、家原に住み着いたといわれています。
明治時代に描かれたと思われる右の絵図によれば、城域は南北約175m・東西245mで、本丸を中心に南の曲輪(南北約24m・東西16m)・西の曲輪(南北約26m・東西約20m)が付属しています。城の周囲は堀(幅約6m)・土塁によって守られています。城の南・東・西部は、石津川など自然地形を防禦のためにたくみに利用していることがわかります。この絵図に描かれた家原城は戦国期の城郭の特徴を備えており、永禄11年の家原城合戦の時期の形態をうかがうことができます。
現在は公団住宅などが建ち並んでいますが、大池に面した部分にかつての家原城の南の曲輪の地形の面影を見いだすことができます。
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