【歴史】
『沢良宜城』説明板より
室町幕府三代将軍足利義満(1368〜94)は、少年の義持に将軍職を譲って5年目にあたる応永6年(1399)、堺港に進出してきた周防国の大内義弘を堺に攻めたとき、沢良宜城主藤井三位は義持将軍から「御馬廻り免状」をもらい、家老職や郎党を従えて勇躍出陣したと伝えられています。
「御馬廻り衆」とは、いわば室町幕府直参の旗本で「応永記」には三千騎と記しています。
当時の沢良宜勢は約三千坪の城(環壕の砦)を中心に、勝尾寺衆徒の中でも相当な力をもっていたようです。(勝尾寺文書)
この城(小字宮西)は、応仁の乱(1467〜1477)の頃か、もう少し前の1400年代の早い時期になくなったと考えられています。
現在、城跡地(美沢町)は高層のマンションや住宅となり、その南端(小字野村垣内)にはボウリング場などができています。
また、隣接した式内・佐和良義神社の拝殿前にある八幡神社はお城の守護神で南北に長い参道は、乗馬訓練の馬場といわれています。
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